0utline message Story History Press     <Return to fes.>


Teatrul
"Eugene Ionesco"

劇評(ゴドーを待ちながら)






海外公演評

“オフ”で起きていたこと(アヴィニョン・フェスティバル、1994年5月)

当然のことながら“オフ”で上演される400本もの作品の中から最も優れた公演を選ぶのはほとんど不可能である。
しかし私にとって何より気になる出来事はモルドヴァの劇団によるベケットの『ゴドーを待ちながら』とウジェーヌ・イヨネスコの2作品の公演だった。
(イヨネスコはこのフェスティバルではこのところきわめて人気が高い。彼の作品は2種類のバージョンの『授業』を含め、これまでに5本がアヴィニョンで上演された。)
モルドヴァ人たちによる公演は“オフ”で上演される大多数の作品とは全く異なるものだった。
非常に高いレベルの演技をする俳優たち、完璧なまでの模倣と独創的な観客との対話、信じがたいほど肩の力を抜いた演技。
モルドヴァから来たこの劇団は非常にレベルの高い芸術を披露してくれたのに、実質的なパブリシティは皆無で、資金も乏しかったことから、メディアには軽視され、本来なら当然受けるべき高い評価を得るチャンスはなかった。

<GAZETA WYBORCZA (ポーランド)、1994年>

火山の噴火にも喩えられる公演

<SUD-EST、1992年>

いまだかつて見たことのない『ゴドーを待ちながら』である・・・いつまでも記憶に残る演劇芸術の時間。
中央ヨーロッパで最も興味深い劇団のひとつが、西ヨーロッパに初めて登場。

<アヴィニョン・フェスティバルのプログラムより、1994年>

『ゴドーを待ちながら』は極度に張りつめた舞台である。
本当の意味で現代的であり、観客に目が眩むような閃光を投げかける表現に満ちている。
力強さと独創性には驚かされる。
とどまることを知らない彼らの創造性はとてつもなく魅力的であり、感動的である。

<ROMANIA LIBERA、1990年>

惨めなアンチヒーロー「ゴゴとディディ」を演じる俳優たちが素晴らしい。彼らの演技は笑いを誘う喜劇的効果にあふれた花火のようである。
彼らは、力強く、感動的な現代演劇の手法を使ってこの悲劇的な人間の境遇にある二人の道化師を演じている。

<ROMANIA LITERARA、1992年>


日本公演評

我々は先頃、モルドヴァ(旧URSS)の「ウジェーヌ・イヨネスコ劇場」を日本に迎えた。
同劇団は“ブレヒトの芝居小屋”(東京)でサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演した。
演出はペトル・ブトカレウとミハイ・フス。彼らの公演はこれまでに日本で上演されたこの有名な作品の中で、最も素晴らしい舞台のひとつであると言えよう。

<毎日新聞(日本)、1996年>
 

1991年、旧ソ連邦の崩壊で独立し、国名をモルドヴァ共和国と改名した国の劇団(ウジェーヌ・イヨネスコ劇場)の「ゴドーを待ちながら」は、96年に初来日公演し、数少ない公演回数にもかかわらず、日本のマスコミや演劇界に大きな波紋を投げかけた。
 それまでに日本で行われていた「ゴドーを待ちながら」は、演者にとってもは非常に難解な芝居と敬遠され、また、観客にとっては政治色の強い難しい芝居と言われてきました。
イヨネスコ劇場はこれをみごとに打ち破りました。
芝居全体を道化師と猛獣使いとキャンディ売りが織りなすサーカス小屋の舞台の出来事として生起させたのです。
観客を笑いの渦に巻き込みながらも、そこには「戦争」だけでなく「ファシズム」も「革命」も「社会主義の夢」も、つまりは20世紀の歴史全体がまるで走馬灯のように過ぎてゆくのように演出されていました。

<七字英輔(演劇評論家)>

モルドヴァ「ゴドーを待ちながら」はヨーロッパの人々が目に当たりにしているホロコーストの光景、サラエボの悲惨を思い出させる。

<鴻 英良(演劇評論家)>

ルーマニア人がやっているとしても、ルーマニア語で歌うわけでもないし、民族衣裳を着ているわけでもない。どう見てもモルドヴァの『ゴドー』だなっていうのがおもしろかった。

<佐藤 信(演出家)>

モルドヴァ人の公演は“オフ”で上演された大多数の作品とは違っていた。非常にレベルの高い演技と完璧な道化芸、観客との独創的な会話が、信じられないようなたやすさで行われていた。

<ポーランド“Gazeta Wyborczaモ紙>

<Return to fes.>

Design by H.K