母の影

 高槻の主婦達の劇団「うらら」の話を続けよう。
次回の公演は、7月7日。言わずと知れた七夕の日だ。メンバーから「先生、<天の川の向こう>という題でお芝居書いてください」とリクエストが出た。
「で、どんな内容がええねん?」
「それは、先生お任せします」

…???そら、せっしょうやがな。題だけ決めて内容は勝手にせえて?…
という言葉を、ぐっと飲み込んで
「よっしゃ…」
と鷹揚(おうよう)に答えた。が、それで、今、難渋を極めているのである。

 テーマは、前から温めていた「幼児虐待」を取り上げることにした。
私が、芝居の台本を書きたくなる兆候は、何か胸に怒りのようなものがもたげてきた時だ。この兆候は3月の半ばから胸の中にあった。自分が幸せになりたい為(ため)に子供を虐待する親たちの報道を見るにつけ、聞くにつけ、我慢がならない――この怒りを芝居にしたかったのである。


冬の夜空に輝くオリオン座
ストーリーはこうだ。
ある日、一人の母親が大学生の娘から「バイト先の上司に子どもを預かって欲しいと頼まれた」と相談される。最初は不倫の恋かと緊張する母だが、よく事情を聞くと、その男の妻が連れ子を残して、他の男と逃げてしまい、途方にくれている。その子は、実の母親に虐待されていて、心に大きなキズを負っているという想定である。大学生の娘から相談された母は、仲のいい友人2人に連絡、その子の心を癒す方法を考え始める。・・・

で、天の川をどうしよう、とうなるのである。

そういえば、あの時、美しい「天の川」を見た。
昭和19年。集団疎開先は、福井県南條郡武生町(現在・武生市)、本興寺というお寺であった。1班10人編成で3班、総員30人であった。
夜は、一つのやぐらコタツに足を突っ込んで10人が放射状に寝ていた。夜中、誰かが「お腹すいた、寝られへん」と泣き出した。
私は台所に忍び込んで米を茶碗一杯盗んできて、コタツで炒(い)ってみんなで食べた。
朝になって先生が「徳田君は朝ご飯はありません」 普段は、誰が泣いても、我関せずの先生が、そういう時にだけ「懲罰」の権力を発揮する。
私は何も言わなかった。
そして、私は何も食べずに学校へ行った。
帰ってくると、私の柳行李(やなぎごうり)の側に、茶筒のお化け(直径15センチ、高さ40センチ)のようなものが2本置いてあった。
蓋(ふた)をあけるとぷ〜んと甘い砂糖の匂いと、香ばしい大豆の薫りがした。
寮母さんが寄ってきて「手紙が入っていたけれど、生徒に里心がつくから、先生が没収した」と告げた。甘い匂いの元については、何の沙汰(さた)もなかった。
毎日ひもじかった。その年は60年ぶりの大雪が降って、雪に赤い絵の具をかけて食べた。絵の具の中で、赤色が唯一甘い味なのを発見したからだ。…そんな冬の日、見上げた北陸の空には、まさに降るような星空であった。北斗七星、カシオペア、オリオン座、うっすら白い流れが夜空を横切る「天の川」…星座の名前は年の離れた兄が教えてくれた。

母の瞳は忘れられない
夜空に浮かぶ母の顔は、昭和19年9月18日午前5時、集団疎開に出発する私たちを見送っていた顔だった。あっちこっちで涙ながらの親子の別れの風景が私の目に飛び込んできた。しかし母は毅然(きぜん)として、まるで出征兵士を見送るように、私の手も握らず遠くを見て立っていた。母の口癖は「男は人のため、国の為に生きらんば…」であった。その母は、疎開先で私が栄養失調に倒れ、大阪に戻った時もやはり、毅然として迎えた。ただ、その瞳に、「生きていてよかった」と優しさと安堵感がこもっていた

 子を思わぬ母はいない。母を慕わぬ子もいない。私はそう思う。大人たちがどんな理由があるにせよ、こんな可愛(かわい)い子供達に、悲しい思いをさせてはならない。母は子供にとって宝だからだ。
 「天の川の向こう」は、そんな思いを込めて書き綴っている。
 ラストはこの親子たちを、満天の星空の中で遊ばせるつもりだ。
 さて、どんな芝居に仕上がるか。ご期待願いたいものである。

=お知らせ=

劇団「うらら」は7月7日、高槻総合市民交流センターで第2回公演を行います。
作・演出 徳田興人 「天の川の向こう」
「ひきこもり」の子どもを持つ親をテーマに、劇団員の子供たちも出演予定です。

公演は午後1時、午後3時半の2回。
前売り900円 当日999円
連絡先 0726−89−0680(上垣さん)



(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.