去るものは追わず、来るものは拒まず

さらば「男と女」――出版記念公演のポスター
 フランスの名優ルイ・ジュヴェの演劇論の冒頭に「芝居は先(ま)ずアテルことだ」とある。しかしこの言葉にはいろいろな毒素が含まれている。

 何の教育もなされていない役者の卵や、三流の役者の寄せ集めの劇団が一発目の公演で当るととんでもないことが起きるのだ。たいしてやる気もないのに参加した役者は、自分のセリフの量だけを気にして脚本の内容を全く理解しようとしない。したがってチケットを売る情熱は全くない。

 それが蓋(ふた)を開けてみれば大入りで、大うけにうけたりすると一人前の役者になったつもりで天狗(てんぐ)になる。すると、演出家のダメだしがうっとうしくなり反抗し始める。そのうえに、ちょっとでもテレビ局からお声がかかれば、もう稽古(けいこ)場に来なくなる。

 一方、贋作『タクシードライバー』の戯曲を出版して下さる話が持ち上がっていた。出版と同時に出版記念公演もプロデュースしてくれるという。本来なら嬉しい話だが心は重たかった。

 もう役者の顔を見るのも嫌になっていた私にとって、タクシードライバーの仕事は救いであった。ところが、出勤の朝、突如、脊髄(せきずい)に激痛が走り、寝返りすら打てなくなった。救急車で病院に運ばれ、脊髄注射を試されたが、なかなか神経に命中せず、絶対安静のまま入院することになったのである。


徳田塾旗上げ公演のポスター
 タクシー運転手に戻ることは死につながると宣告され、1週間ほどして退院したら劇団から、総会をしたいので出席してくれとの連絡が入った。杖(つえ)を頼りにとぼとぼと劇団に行くと「劇団員一同、お笑い路線で行きたいので、先生は引退して下さい。劇団『男と女』の名前は私たちに下さい。あとは我々でやっていきます」

 私には何の未練もなかった。出版社の方の意向で出版記念公演だけは劇団「男と女」で、そして運転手の一人語りも私にやって欲しいと云(い)われたが、もう私にはそのエネルギーは残っていなかった。

 この公演も大入り満員であった。やっと肩の荷が降りた思いであったが、医療保護をもらいながらの通院生活は、全く先の見えない絶望的な日々で、夜、寝ることすら恐ろしかった。

 そんなある日、出版記念公演を観た1人の青年が、芝居をしたいと云ってきた。それに劇団「男と女」にいた女の子が2、3人やっぱり私に芝居を教えて欲しい、本当の芝居がしたいと云ってきた。

 俄然(がぜん)、私は燃えた。1982年7月、演劇舎『徳田塾』を設立。最初は4、5人だった劇団員が1年もたたないうちに10名に増えていった。1年間みっちり訓練した。

 この1年ほど楽しい稽古はなかった。基礎訓練の素材の選択、日々、役者と同じ苦しみを味わいながら、海綿が水を吸い込むように、上達してゆく若者たちを見るのはほんとうに心地よいものだった。客は入ったものの劇団『男と女』時代のあのイライラと不愉快さは一体なんだったのであろう・・・。1983年6月 ドラマテイク・ポエムシアター『旅人』を兵庫県・夙川のバートン・ホールで公演した。


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